時 評                           
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 2007年4月   日本国憲法誕生
 4月29日放映NHKスペシャル「日本国憲法誕生」がなかなかよかった。
 極東委員会が発足するとGHQはその管理下におかれる。GHQはその前に新憲法をつくろうとして、日本政府に憲法草案の提案を急がせた。ところが毎日新聞にスッパぬかれた政府案は明治憲法とさほど変わらなかった。そこでマッカーサーは新憲法作成を民生局にゆだねる。時間は一週間しかない。GHQは憲法作成にあって世界の憲法や日本の民間憲法草案も参考にした。民生局のケーディスらは、マッカーサーノートにあった「自己の生存を保持するための手段としての戦争放棄」、すなわち自衛のため戦争放棄を削除。さらに天皇条項の「ヘッド」を「シンボル」と書き換え政治力を持たせないようにした。そのとき24条の女性の人権条項を書いたのがベアテ・ゴードンである。
 GHQは日本政府にこの憲法草案を受け入れるよう強要する。だが日本政府は「自由と民主主義の憲法は受け入れられない」と拒否。そこで幣原首相はGHQの草案をもとに2週間で日本政府案を作成するよう命じた。その憲法作成の中心になったのが佐藤達夫である。佐藤はGHQ案を随所で巧妙に書き換えた。天皇条項の「内閣の助言と同意を必要」を「内閣の輔弼による」などとした。そのためGHQと日本側で激論となり30時間の不眠不休の交渉となる。日本政府は女性の人権についても日本の歴史・文化と相容れないとして削除するよう強硬に主張した。しかしケーディスが、同席していた有能な通訳ベアテさんも望んでいるからというと、すんなり通ったとベアテさんが当時をふり返り楽しそうに話していた。こうしてできた日本政府の憲法草案をマッカーサーも全面支持した。
 しかし極東委員会が反発した。マッカーサーが天皇存続の規制事実をつくるため独断で決定したと批判。そして憲法改正は極東委員会の最重要事項であり、憲法承認は委員会の権限であるとマッカーサーを批判した。ケーディスは政府案にあった「主権は至高にある」とされていた条項を、極東委員会が必ず問題にするからと「主権は国民にある」ことを明確にせよとせまった。そこで前文と天皇条項の「至高にある」が主権在民に書き換えられた。さらに政府の小委員会ではそれぞれの政党が独自の修正案をだした。社会党の森戸辰雄が提案したのが25条の生存権条項である。森戸は大学を追われてドイツ留学中、ワイマール憲法の世界初の生存権規定「人間に値する生活」から学んだという。さらに26条の義務教育は政府案では初等教育となっていた。それに対し義務教育の延長が全国の教員から陳情として寄せられた。特に熱心だったのが愛知県の教員たちであった。その結果、初等教育は普通教育となり義務教育も中学校までとなった。9条2項の「前掲の目的」を芦田均は「前項の目的」と訂正した。「前項」なら「国際紛争を解決する」ことを指すから、それ以外の自衛のための戦争は認められると解釈したのが佐藤達夫である。そのことに極東委員会で中国国民政府も気付き問題としていた。さらにソ連は日本が2度と戦争しないため、「すべての閣僚は文民としなければならない」ことを追加するよう要求した。
 日本国憲法は国際的な場でさまざまに論議され、政府の意見も政党の意見もそして国民の意見も反映されてできた国際憲法なのだ。憲法改悪は許されない。



 2007年3月  グッとくる左翼
 いつも面白くない『論座』の特集、「グッとくる左翼」がなかなかいい。たしかに、「古典的貧困が表面化している現在、社会的平等と弱者救済を唱える左翼が力を失っている現状は奇異」(芹沢一也)である。また、「資本のやりたい放題によって階層分化が進行し」し、そうした状況が「憎悪・排外主義・ナショナリズムを生み出している」(入江公康)のも現実だ。ドゥルーズがいうように左翼の未来は、「社会的連帯の条件をつくりだすことができるがどうかにかかっている」(森千香子)。
 状況は左翼に有利なのにいっこうに元気がない。「自己責任」とか「「自由」「競争」といった新自由主義の言説を、従来のイデオロギーで批判できないといった面もあるだろう。またメディアの巧みに世論操作もあるだろう。だがもうひとつ、市野川容孝が批判している政治制度の問題が大きいのではないか。
 ミルによれば、「真の民主主義」は全党派が「比例して代表される」のに対して、「偽の民主主義」は「数的他者に有利な、特権による統治」だという。民主主義の試金石は少数者が適切に代表されることにある。ところが日本の小選挙区比例代表制は、民意が反映されないさいたるものだ。たとえば05年の衆院選挙をドイツ方式の小選挙区比例代表制で算出すると、自民(296→192)、民主(113→157)、公明(31→67)、共産(9→37)、社民(7→27)となる。これはドイツの「社民+緑+左翼」の計53%に対し、「民主+社民+共産」の野党の計46%となり遜色はない。近年の右傾化は世論の変化以上に、制度の問題が大きいといえる。こうした民意を右傾化させる選挙制度こそ本質的問題がある。市野川は、社会主義はマルクス→レーニンそして今日のネグリに至るまで議会制民主主義を侮蔑してきたという。80年代以降ドイツの新左翼が議会制民主主義に回帰していったのに対し、日本の新左翼はそれを「擬制」として軽視して今日に至った。「既存の議会制民主主義に対して、否を折り込みつつ、回帰していくこと」が必要だと市野川は強調している。
 戦後の日本社会で社民勢力が育たなかったことが最大の問題だが、議会制民主主義を軽視してきた左翼学者の責任も大きいだろう。



 2007年2月   内田樹『下流志向』(講談社)
 現代の若者たちが、なぜ「学びからの逃走」「労働からの逃走」をするのか、消費者としての経済合理性の原則から説明する。学校が生活主体や労働主体としての意味を説く前に、子どもたちは消費主体としての自己をすでに確立している。だから子どもたちは学校で消費サービスの買い手として無意識にふるまう。「なぜ学ぶ必要があるのか」「それがなんの役に立つのか」とたずね、気に入ればやるし気に入らなければやらない。教室で授業を黙って耐えるという苦役・不快を「貨幣」と読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。いわば教室は不快と教育サービスの等価交換の場となる。そして教育サービスが「見合わない」と判断すれば、「値切り」(おしゃべり・エスケープ等)行う。学びとは学びの意味や意義が事後的に考量されるダイナミックなプロセスだが、子どもたちは学校をコンビニのようなものと考えている。なぜなら消費とは無時間的な行為であり、消費者は変化しない主体だからだ。学びの場に消費主体として登場した子どもたちは、こうした経済原理に禁則されて時間と変化について自閉して、幼くして自己形成を完了させている。
 いっぽう、教育を消費行動ととらえる子どもたちが「学びからの逃走」するように、労働を消費行動ととらえる若者たちが「労働からの逃走」の道を進んでいる。彼らは消費行動の原理を労働にあてはめ、自分の労働に対して賃金が少ないとか評価されないとか、不合理さを感じている。等価交換を原則とした場合、こうした彼らの主張は正しい。なぜなら労働の場では努力と成果は相関しないのが相場だからだ。彼らは等価交換でない交換には決して応じないという賢い消費主体として自己規定している。そうである以上、学びや労働のような本来等価交換ではないダイナミックなプロセスに身を投じるという決断は自主的にはでてこない。教育を「貨幣と商品」「投資と回収」といったビジネス・モデルで考想するかぎり無時間モデルとなる。だが等価交換という無時間モデルは、子どもたちから「学び」の動機付けを奪う。時間性を排除したところに「学び」が成立するはずがないからだ。
 こうした内田理論は非常にオモシロい。同時に危険性も感じた。権力に利用されやすい側面があるのだ。それについては後日書きたい。それにしても内田樹、いまやすっかり売れっ子評論家だ。



 2007年1月     エントロピーロンから見た農業
 槌田敦「エントロピー論から見た農業」(at6号)がおもしろい。
 現在温暖化で世界中が浮かれているが、やがて地球は寒冷化する。そうすると食糧をめぐる戦争がおきるだろうと警告する。世界の穀物輸出は南北アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアの白人国家で、輸入はアジア・アフリカの有色人国家である。北アメリカやヨーロッパが食糧生産に力を入れるのは、戦争に備えて農業を重視しているからだ。これに対し、アジア諸国は戦争より工業を重視し、穀物は輸入すればよいと考えている。
 アメリカは世界最大の穀物輸出国だが、地下水をくみ上げて穀物生産している。地下水に含まれた塩分で、やがて穀物生産の適地でなくなるだろう。荒地となった土地は砂漠化するが、これはメソポタミア文明等がたどった道である。古代文明は数千年という時間をかけて遷都を繰り返し、広大な土地を少しずつ砂漠化していったが、北アメリカは広大な土地を短時間で砂漠化しようとしている。
 山地も平地も雨で栄養素を洗い流されて砂漠化する。海もまた魚の糞の落下で砂漠化する。砂漠化こそが自然の基本である。それでは自然の生態系の循環はどのようにしておこるのか。砂漠の海が生命のいる海にに戻るには、深海の栄養素が海面まで引き上げられなければならない。これは風と温度差により循環される。赤道に向って吹く貿易風などで大陸西岸で深海水が湧昇する。こうした湧昇水の上昇する場所が世界漁場となる。陸の生態系の循環は動物による。陸では重力に逆らって海から平地へ、平地から山地へと栄養素を運ぶのは鳥や鮭などである。これにより植物が育ち森林が復活する。自然は重力で栄養素を下へ落とすが、動物が栄養素を上へ運ぶ。かくして森から流れてくる川の水は栄養素がゆたかで、田畑の収穫をふやし河口を好漁場とする。
 農業の最大の問題は砂漠がだが、農地が砂漠化することはきたるべき寒冷期に人類の行き場がなくなることになる。今必要なことは、穀物貿易を制限して穀物生産を自国で行うようにすることである。科学技術による大量生産の農業ではなく、人力を使うことで多くの人達が働ける農業に戻すべきだと、槌田はのべている。



 2006年12月    ナショナリズムに対抗する社会的公正の実現
 『季刊プルズ・プラン』編集長の白川真澄は目だたないがすぐれた評論家である。彼の書いた文章にはいつも感心する。同誌36号の「「安倍政権は格差社会を加速する」も、私が言いたいことを的確に鋭く書いている。安倍を政権に就かせた最大の要因は日本社会に広がるナショナリズムの空気だ。それではなぜ日本社会でナショナリズムが蔓延しているのか。格差の拡大、貧困層の増大、低賃金不安定の非正規労働者の急増、社会保障制度の縮小などが背景にある。日常生活に不安を感じている人は、91年50%から03年67%までふえている。生活が苦しい人が05年56%もいる。02年所得再分配調査では一世帯の平均所得額が511万円。300万円以下が約40%である。06年の正社員は3372万人、非正規雇用者は1633万人。賃金格差は05年で男性100:64、女性100:70。非正規の急増による所得格差が社会全体の格差の重要な要因となっている。
 格差解消には同一労働・同一賃金=均等待遇、雇用の保障、社会保障政策の充実、さらに税制改革=所得再分配政策の強化などである。ところが「骨太方針06」では11年度までに政府と地方の基礎的財政収支を黒字にすることを目標にしている。そのため歳出削減の標的とされたのが、公共事業・地方交付税・社会保障関係費である。母子加算の廃止、自宅所有者の生活保護費打ち切り、介護保険料を2割に引き上げ、医療免責制度による全額負担などである。これではいっそう格差が広がるだろう。そのいっぽうで40%まで低下した法人税はアジア諸国並みに20%台まで引き下げようとしている。相続税の最高税率も70%から50%に引き下げた。株取引でいくら儲けても10%の税ですむ。すべて格差拡大の金持ち優遇政策である。安倍政権は格差拡大と貧困化を加速する。それがもたらす人々の不安や不満が、安倍政権批判へと向かわずナショナリズムに回収されるおそれがあると白川は危惧する。そして社会的公正の実現と地域での連帯と助け合いの仕組みを創出することが、ナショナリズムに対抗する力を育てるとのべる。
 何度もいうが、根源にあるのはこの国の労働の問題なのだ。ナショナリズムが立ち上がるの背景には「労働の不安」がある。社会が平和で安全であるためには、労働の安定が不可欠だ。労働の世界が崩壊するときファシズムがしのびよる。労働に視点をおいた公正な社会の実現こそが喫緊の課題なのだ。



 2006年11月     終焉に向かう原子力                  
 東京で開催された「終焉に向かう原子力」集会に参加した。講師は広瀬隆・田中三彦・小出裕章・藤田祐幸。
 広瀬さんの話。チャベス大統領が国連演説でブッシュを「悪魔」とよんで非難した。だが、これほどあからさまなアメリカ非難にもかかわらず、アメリカを擁護する国は国連ではひとつもなかった。そのことに日本のマスメディアが一様に驚いた。アメリカ・イスラエル・日本がいかに世界中で孤立しているか、そうした世界情勢に無知だからだ。だからチャベスの演説とその反応驚いている。チャベスの国連改革案は至極真っ当である。第一に、安全保障理事会をどの国も平等に参加できるようにすること。第二に、世界紛争を解決するのに効果のある方法を使うこと。第三に、拒否権という非民主主義的メカニズムを廃止すること。こうした重大な発言を日本の報道界は完全に無視した。なお明治以来現代まで続く閨閥支配については、時間のつごうで割愛。書物の出版にまつことにしよう。
 田中さんの話。田中さんは某メーカーの原子力発電の設計技術者だった人。現在中電相手の原発訴訟で原告側証人として原発の危険性を証言している。浜岡原発は東海地震の震央に建設されている。特に1−4号基は危険であり、なかでも1・2号基は東海地震を想定せず設計されており、直ちに運転停止にしないと危険極まりない。電力会社は原発の安全を主張している。その理由は、最悪の事態が起きてもゆとりがあるように設計されているというものだ。しかし現実は耐震偽装設計と同じで、きびしい地震がきたときは持ちこたえられない。ビルはダメで原発はよいという理屈は通らない。原発は通常運転では安全度高く設計するが、緊急時は安全度低く設計して、部分が破壊されても大破しないように設計されている。だから大きな地震がおきたら何があってもおかしくない。さすがに技術者らしい説得力ある話でした。
 小出さんの話。放射線がどんなに恐ろしいか。1999年の東海村のJCO事故で燃えたウランは1ミリグラム。灯油2リットル分のエネルギーである。1ミリグラムの燃焼で人の命を奪い、工場から半径500mで住民は放射線許容量を超えた被曝をした(広島原爆はウラン量1キログラム)。分子の結合エネルギーは数電子ボルト。しかしエックス線のエネルギーはその数千倍。セシウムは数万倍。プルトニウムは数百万倍。どれほど凄まじいエネルギーかがわかる。しかもどんなに被曝量が少なくて被害が発生することがわかってきて、時代とともに許容量を引き下げてきた。今年三月より、青森県六ヶ所村で再処理工場の稼動がスタートした。再処理工場から放出される核種の被曝で、計算上は毎年約130人、40年の操業で5000人がガンで死ぬ。それだけでなく地球規模に汚染を広げる。しかも、これら自然界に放出される放射性核種は費用さえ惜しまなければ補足できる。経済費用を惜しんで工場を稼動させることは故意の犯罪だ。日本は核兵器非保有国で「ウラン濃縮」「原子炉」「再処理」の3者すべてを保有する世界で唯一の国となったという。


 2006年10月   安倍新政権とこの国のゆくえ
 現代日本で渡辺治は最も信頼できる政治学者のひとりである。『季刊 自治と分権第25号』の「ポスト小泉=安倍新政権とこの国のゆくえ」は圧巻である。小泉政治がポピュリズムだという一般的評価はあたらない。小泉政権は90年代以降日本の支配層が直面した軍事大国化と構造改革という2つの大改革を遂行する課題を担って登場した支配層の切り札政権であった。軍事大国化の面では小泉は初めて自衛隊海外派兵(イラク・インド洋)を強行した。だが武力行使ができないという改憲課題をのこした。いっぽう構造改革では「自民党をぶっこわす」といって国民的合意を獲得し、急進的構造改革で弱者を犠牲にしながら大企業の競争力を強化して景気を回復した。小泉政権は構造改革の制度整備(経済財政諮問会議による財界意思の政策反映や、自治体を構造改革の執行機関とする各種制度改革等)を行ったが、構造改革による社会的統合破綻への対処は次期政権へと先送りした。
 安倍政権の課題の第一は、軍事大国化の完成と大企業本位の構造改革の推進である。第二は社会統合の破綻への対処である。第三は東アジアでの日本のリーダーシップの確立である。この3つの課題を達成するために国民投票法案・共謀罪・教育基本法改悪等がもくろまれている。そしてこれら諸改悪の総仕上げが改憲である。特に教基法改悪では、文科省は教育振興基本計画によって予算要求の根拠を獲得するだけでなく、文科省の考える教育改革を全国に強制できるようになる。いわば教基法改悪は格差と選別の新自由主義的教育改革と、大国主義的ナショナリズム涵養の梃子となる。その改革の尖兵としての教師作りが、教員評価・指導力教員・免許更新等の諸制度改悪で現在進行中である。
 憲法改悪は単に9条を変えて自衛隊を海外派兵するだけでなく、国家体制を軍事国家型・新自由主義型に変えていくという国家の全面的再編構想である。憲法改悪の背景は、ひとつはアメリカの圧力がある。ポスト冷戦型への米軍全面的再編成で、ドイツ・朝鮮半島から「ならず者国家軍」の並ぶ「不安定な弧」へと重点的に再配置する。そして「ならず者国家」との戦争で日本などの同盟軍を動員しようとしている。そのためは改憲憲が不可欠なのだ。いっぽう財界はアセアンから東アジアへと経済戦略をシフトし、東アジア自由経済圏構想をめざしている。こうした経済戦略のために、9条改悪で東アジアで軍事的リーダーシップを確立しなければならない。そして東アジアでのリーダーシップの確立のためには歴史問題の解決が不可欠である。ところが現代日本のナショナリズムは反アジアナショナリズムで軍事大国化にそぐわない。そこに支配層のジレンマがある。
 いずれにしても国会での教基法論議に注目していきたい。



 2006年9月    利益より理念に走る政治家のこわさ
 『噂の討論外伝 岡留安則VS12人の論客』で、岡留が筑紫哲也・田原総一郎・上野千鶴子・森巣博・佐高信らと対談して健在ぶりを発揮している。なかでも魚住昭との対談を興味ぶかく読んだ。魚住の『野中広務 差別と権力』はこのホームページの書評欄でもとりあげているが、ノンフィクションはかくあるべしという力作である。
 魚住は野中取材を進めていくことで、田中角栄的政治に対する評価が変化したとのべる。田中型政治は利益誘導型政治でインフラ整備で票を獲得する。クリーンな民主主義政治とはいえないが、それが政治ができる最大限のことではないか。田中型政治が日本の南北格差を解消し、戦後の比較的平等な社会を築いてきたことは事実だ。それが今まであまりにも否定的に語られすぎてきたのではないか。その結果、汚れた「ハト派」を見殺しにしにしてしまった。
 憲法9条を守ってきたのは自民党の汚れたハト派だ。なぜなら地元と密着して票を獲得するには地元の利益を優先する。彼らは利益に走るが理念に走ることはない。「北朝鮮をやっつけろ」とか「戦争をはじめろ」なんていわない。それは彼らが平和主義者だからではなく、地元でそんなことをいったら相手にされなくなるからだ。こうした辺境の政治家が戦後の護憲勢力となってきた。戦後の利益誘導型政治が理念の暴走にブレーキをかけてきたと魚住はいう。
 利益に走る政治家より理念に走る政治家がはるかに危険なことは、石原や安倍をみるまでもないだろう。欧米では富裕階級のエリートが国を統治するのがふつうだ。だが戦後の日本では戦争に負けたこともあって地方出身の非エスタブリッシュメントが中央政治を支配してきた。そこにいまの2世・3世にはない、中央と地方の格差を是正しようとする庶民感覚があった。書評『天才大悪党 昭和の大宰相田中角栄の革命』でも書いたが、田中型政治が戦後日本型の福祉政策(社会主義政策という人もいるが)を実施してきたことはもっと評価されてよいと思う。ただ、就職の斡旋や裏口入学の世話をする政治家の方が、理念に走る政治家よりはるかに安全だという魚住の意見は首肯できない。
 田中型政治はパイの配分が可能な高度経済成長を前提として成り立つ政治であった。だから田中型政治よもう一度というわけにはいかない。公共工事による環境破壊はすでに限界なのだ。広井良典『持続可能な福祉社会ーもうひとつの日本の構想ー』がいうように、持続可能な社会をどう創るか新しい社会の構想が必要とされている。


 2006年8月  米国の植民地であり続ける日本への警鐘
 国民が汗水働いてつくりだした日本の国富が、米国政府と資本によって吸い取られようとしている。郵政民営化(郵政米営化)の340兆円だけでない。「日本市場「完全開放」のゴールを2010年と決めた米国は、肉や野菜を始めとした食品、電気通信、金融、建設、保険、法律、学校、証券市場などありとあらゆる社会構造の「最終改造」に入った。開放という美辞麗句の下、痛みを伴う構造改革の果てに、我々日本人がたどり着くのは、これまで経験したことのない想像を絶する「下流社会」と「植民地化」の誕生である」(山本義彦『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』)。
 森田実「戦後60年の日米関係」(『現代の理論6』)は、「主権在米化」した現在の日本への老評論家の警鐘である。
 帝国主義国アメリカは巨大な軍事力を維持・拡大するとともに、自国民の支持を得るために大減税政策をとり続けている。共和党政権の下で米国は無税国家に近づきつつある。これを放置すれば米国財政は破綻する。米国はこの矛盾をどう解決したか。米国につぐ第2の経済大国を植民地化するのに成功したのだ。米国政府は、小泉と政治家と官僚とマスコミを手先化することによってこれを可能にした。小泉政権が、国民の支持のもとに日本を米国の植民地にするという、世界の歴史でもめずしいことが起きた。これにより日本国民が働いて作り出した成果は、米国に吸い取られ、こんごも吸い取られつづけられる。
 日米安保条約を絶対化している日本政府は、米国に対等にモノがいえない。日本の国富は名目貸借のように見えて、実質贈与である(日本は米国国債を90兆円買っているが、かえってくるあてはない)。すでに米国政府内部では、「日本のカネは2010年代に底をつく。そのときは米国財政の補充先を中国とインドに移す」ということが、半ば公然と議論されているという。日本は日米同盟を絶対化することにより、米国を絶対的に正当化した。いまや日米同盟を批判することはタブーである。安保条約が絶対化されることで、条約の果てしない拡大解釈が行われてきた。米軍と自衛隊は一体化して、世界中どこでも戦争できるようになった。安保は日本国民を永久に米国の従属国に釘付けしてしまう呪縛のようなものである。
 その結果、日本の政府と日本人は「自分の国は自分で自主的に運営する」という、どこの政府も持っているあたりまえの政治原則を投げ捨ててしまった。日本は歴史的岐路に立たされている。米国の植民地であり続けることをよしとするか、独立を自らの力で実現するかである。保守的と思われた政治評論家が危惧するほどに、日本の現状は危機的であるということだ。



2006年7月   ふたたび禁煙ファシズムについて
 喫煙者が不当にバッシングされている。タバコが害であることは事実だろう(従来いわれてきたほどだとは思えないが)。だが害だと知って人に迷惑をかけずに吸うことはなんら非難されることではない。石川憲彦・高岡健『心の病はどうしてつくられる』(批評社)が「健康増進法」の問題点を鋭く指摘している。
 「WHOによるヨーロッパ7カ国研究」というのがある。この研究によると、ヘビースモーカーの両親に育てられた子どもは肺癌になる確率が低いという結果であった。さすがにWHOはこの調査結果を発表できずに伏せていたが、イギリスの大衆紙がこれをすっぱぬいたため、しかたなく一番目だたない学術誌にその結果を公表したという。アメリカの研究には二つあって、ひとつは副流煙を吸う人と吸わない人では差がないというものだ。もうひとつは副流煙は健康に悪いというものだ。ただ二つ目の研究対象は、新聞広告で集められてきた貧困層だということがミソ。アメリカでタバコを吸っているのは貧困層なのだ。つまり彼らの置かれた生活環境を考慮せず、副流煙だけで結論をだしている点に問題があるという。
 「喫煙者は自分の健康管理ができないダメ人間」 「健康に生きない人間はよくない人間だ」という強迫観念が、メディアを総動員して宣伝されている。かつて「エイズになる人はふしだらな人」という隠喩が意識的に流布された時代があった。いま喫煙者は極悪人のごときイメージが意識的に流布されて、喫煙者は「ふしだらなダメ人間」「不健康な人間」であるとの隠喩が支配的になりつつある。身体管理は人間管理の最も優れた方法である。。自己決定・自己責任で自分の身体を管理せよというソフトな管理がフーコーの「生ー権力」である。健康増進法にはいまのところ罰則規定はないが、やがて罰則が設けられるだろうと石川はいう(だが、路上喫煙など罰則規定がすでに全国各地でできている)。
 日本は男性喫煙者はアメリカの2倍だが、平均余命は世界1位である。日本の三大死因は癌と心臓病と脳血管障害だが、これらはすべてに平均寿命がのびた結果で過剰な寿命の副産物だという。そして、40歳から80歳に寿命がのびたうち、医学の貢献はせいぜい1ー2歳だというのだ。平均寿命がのびたのは栄養とエネルギーと経済発展が原因である。すなわち、貧富の差が少なければ少ないほどその国の平均寿命は長くなる。日本がまさにそうだ。たとすれば、世界1位の寿命をこれ以上のばす必要があるのかという「健康増進法」(反タバコ立法)への根本的に疑問がわいてくる。


2006年6月  日本の刑事裁判は死んだ?
 山口・光母子殺人事件の弁護人安田好弘弁護士が、死刑制度に反対しかつ最高裁の弁論を欠席したとバッシングされた。月刊『現代』(7月号)の安田好弘・中嶋博行「被害者の正義と犯罪者の権利」で、安田は日本人の8割が死刑制度の存続を望んでいることに触れ、その背景にマスコミの過剰犯罪報道があると指摘している。新しい犯罪が起きるたびにパニック現象がおきて、悪いヤツは早くやっつけろとう風潮になっている。犯罪者に対するリンチ容認で社会全体が理性を失っている。その発端がオウム事件で、あの異様な興奮状態がその後も続いてパニック状態を作り出している。そうしたなかで司法が死刑積極論に転換し、裁判の迅速化の名の下に事実をおろそかにした手抜き裁判が増加しているという。
 いっぽう『世界』(8月号)安田好弘・佐藤優「弁護士の職責とは何か」は、05年の「改正」刑事訴訟法で裁判官と弁護士と検察官の地位が変わり、裁判所が絶対的力を持つシステムになったという。つまり裁判所が一方的に弁護士に出頭命令をかけ、弁護人が出てこないおそれがある場合国選弁護人を選定して裁判を終わらせてしまうことができる。刑訴法「改正」で日本の刑事裁判は死んだと安田は述べている。司法制度の中で被害者の人権・救済が疎かになっているという批判がある。だが司法の場で被害者の人権は実現されるべきではない。被害者の苦難と尊厳回復は社会全体が負担すべき福祉の問題だ。司法は事実を明らかにし、事実に基づいて犯罪を認定し、公正な量刑を科すもので、法廷はを被害者の願いを実現して刑罰を実現する場所ではない。仮にそうなれば司法は被害者の復讐の場になってしまう。そして刑罰はその個人が復活できるだけの刑罰でなければならない。
 いまなぜか日本の国家を揺るがす大事件が安田弁護士の下に集まっている、そのことに警察・検察が危機感をもっているという。「弁護士はあくまで悪魔の弁護人でなければならず、検察は正義の弁護人でなければならない。司法はそれではじめてまともになる」という安田弁護士の発言に凄みがある。
 

 2006年 5月   財政改革はどうするのか
 月刊『経済』(5月号)が「財政改革」特集している。そのなかで二宮厚美「憲法に立脚した財政政策をー新自由主義改革との対決ー」を興味深く読んだ。小泉政権の財政政策の主要課題は2010年までに基礎財政収入を黒字化することである。ひらたくいえば借金に依存しない財政構造にするため、歳出削減と増税で「小さくて効率的な政府」を実現しようというものだ。日本の借金は国・地方あわせて800兆円。こうした深刻な財政危機のなか、国民は増税も社会保障費削減もがまんして財政再建に協力すべきとの意見が主流となっている。
 だがはたしてそうか。二宮によれば財政学には3つの役割がある。(1)資源の効率的配分、(2)所得再分配、(3)経済の安定成長である。(1)は公共サービスを市場に委ねると「市場の失敗」に直面するので国民に必要な公共財を供給し社会の資源配分を効率化すること。(2)は資本主義の所得分配の不平等を財政を通じて公平化すること。(3)は累進所得税制や社会保障制度・公共事業などで経済の安定成長をはかること。つまり戦後のケインズ主義的福祉国家政策である。
 小泉財政構造改革はこの3機能すべてを否定する。第1に公共財の供給を制限して資源配分の効率化を市場原理に委ねようとし、第2に受益者負担主義の徹底によって財政の所得再分配機能を弱めようとし、第3に企業の国際競争力強化を第1にして国民経済の安定成長を犠牲にしようとしている。新自由主義的財政再建は、企業の競争力強化と財政削減・増税をいうだけで財政最大の浪費軍事費には手をつけない。
 公共財とは市場原理では十分供給されないサービスである。二宮は公共性を(1)国民全体の共同性を担うサービス(共同性)、(2)憲法上の人権を保障するサービス(権利性)、(3)社会の公平を実現するための不可欠なサービス(公平性)の3基準をあげ、この3基準にそって財政政策が実施されるべきだという。それゆえ、所得再分配は受益者負担ではなく応能負担原則に基づいて配分されなければならないし、企業の競争力強化ではなく国民の福祉・生活充実のための公共投資が優先されなければならない。
 二宮は巨額な負債について、(1)一般歳出から分離して国債管理部門を独立させ管理して財政健全化をめざし、(2)国債管理では受益者負担原則を適用すること(なぜなら累積債務はゼネコン等への大盤振る舞いのツケによるものだから)を提唱している。
 財政改革については『世界』(5月号)から始まった神野直彦らの「脱格差社会の構想」にも注目していきたい。

   
2005年 2月   改憲のネライと改憲阻止のたたかい

 『ピープルズ・プラン29』が力の入った憲法特集をしていて読み応えがある。樋口陽一は法治国家とは民衆が法に従うのではなく、権力が法に従うことだったはずなのに、日本では逆にうけとられてきたという。憲法9条は西洋近代が踏み越えることのできなかった目標を明示したとも。現在憲法は国民に守らせる約束事だという議論がでているが、伊藤博文でさえ憲法は君権の制限であり臣民の権利保護だとしていた。維新の指導層は驚くべき開明的認識をもっていたと樋口はいう。
 渡辺治によれば改憲のネライは軍事大国化と新自由主義改革の2つある。骨抜きにされた9条でも最後に突破できないのが集団的自衛権行使だ。改憲の短期目標は軍事大国化のための9条明文改憲である。9条改憲には3つのタイプがある。憲法に海外派兵を明記するタイプ。国連決議に基づく場合のみ海外派兵を認めるタイプ。国際貢献のために海外派兵できるとするタイプ。渡辺は3つ目のタイプが主流になるだろうという。長期目標は新自由主義改革のための憲法全体の改憲である。具体的には階層型福祉・階層型制度、保守2大政党制、治安国家などの確立を目指す。支配層の改憲プログラムはこの2段階戦略である。土佐弘之によれば、21世紀の世界内戦化で法の支配が根底から崩壊して、アウトローの空間が拡大している。こうしたグローバルな法の空洞化と連動して改憲の動きもある。
 シンポジウムの討論で渡辺はつぎのようにいう。9条改憲を阻止できれば、支配層の軍事大国化と新自由主義改革の2つの改革に大きな打撃となる。現行憲法(9条・25条)は2つの改革に対抗する最大の武器になる。改憲阻止のためには日本の軍事大国化に警戒感をもつアジア諸国の民衆の運動との連帯が必要だ。また2つの改革に対抗する運動を統一して反グローバリズムの闘いとして取り組むことが大事だと。反戦平和と反グローバリズム運動との結合だ。さらに竹信美恵子は戦争がない状態が平和なのでなく、女性への暴力や労働者への暴力など新しい人権と平和を再定義する必要があるとのべる。斎藤純一は日本社会の規範意識の解体について、改憲を批判するだけでなく憲法そのものを積極的に問題化していくことが規範意識の再生につながるという。武藤一羊は憲法は国家の法というより民衆の合意契約としてとらえた方がいいとのべる。そして、われわれがどういう日本社会をつくりたいか、それを明らかにしながら改憲阻止の運動につなげていくことが大事だと。
 憲法条文擁護運動だけでは力にならない。かつても具体的に憲法を武器にして現実と闘う運動の盛り上がりこそ憲法改悪を阻止してきた。憲法を武器にして現実と闘うことでしか改憲阻止の展望はない。日本を代表する知識人が一同に会し、きわめて刺激的なシンポジウムの特集となっている。



2005年 1月  教育学者のダメさかげん
 
佐藤学が『論座』(2月号)に「改革によって拡大する危機」を書いている。03年のOECD41カ国の15歳対象の国際学習到達度調査(PISA)で、日本の高一の学力は科学2位、(2)数学6位、(3)読解力14位で、文科省にPISAショックが襲ったという。日本の学力が世界トップ水準から転落しつつあるからだ。佐藤は学力低下論議によって次の6つの現象が生起していると指摘する。(1)受験競争の復活と受験産業の繁栄、(2)家計教育費の増大と教育費の階層格差の拡大、(3)ドリル学習の普及、(4)習熟度別指導の普及、(5)少人数指導・少人数学級の普及、学力テスト導入・学校間競争の組織化である。教育の危機が改革を導くのではなく、改革が危機を誘発しているという佐藤の指摘はそのとおりだ。
 だが学力低下対策として、「教師教育の大学院レベルへの格上げ以外に、学力の低下を阻み教育の劣化を克服する切り札は存在しない」という佐藤の提案にはアキレた。天下の東大教授がこんな低レベルの対案しかだせないのかと情けなくなる。佐藤の文章を読んでいつも思うのは、分析はなかなかいいのだが対案がからきしダメなのだ。なぜかといえば教育労働者の労働条件の視点がスッポリ欠落しているからだ。これは佐藤だけでなく刈谷剛彦や藤田英典などすべての教育学者連中にいえることだ。これら学者連中が一度でもいい、教職員の労働条件に本気で言及したことがあるだろうか。私の知るかぎり皆無だ。だからどんなに立派な教育論を展開しても、行政の教育政策への対抗提案たりえないのだ。教育学が現場の教職員に対して無力なのはそのためだ。私は学力論争などほとんど関心はない。ただいままで日本の学力がトップクラスだったのは、日本の教職員が有能だったからだと信じている。学力低下に対する有効な対策などないだろう。仮にできることがあるとすれば、教職員増や20人学級といった労働条件の改善だけだろう。それこそが教基法10条のいう行政の教育諸条件整備の仕事であるのだ。
 話は変わるが『情況』(1.2月号)のコリン・コバヤシ「世界市民こそ21世紀を変革する」がいい。世界各地でグローバリゼーションに対する巨大な異議申し立ての行動が起きている。だが日本のメディアはまったくといっていいほど報道しない。アメリカ帝国と新自由主義の暴力を打ち砕くのは世界の民衆の連帯しかない。グローバル・ジャスティスとグローバル・ピースを求めるオルタ・グローバリゼーションのグローバル・ネットワークこそが「世界市民」の連帯を形成する21世紀の希望であるコバヤシはのべる。コリン・コバヤシがどんな人か知らないが書いていることはワンダフルだ。



2004年 12月    民営化にどう対抗するか

 朝日新聞の論壇時評などで取り上げられる論文と私の関心はずいぶんズレがある。あらゆる分野で「改革狂詩曲」(間宮陽介)が吹き荒れている日本で、実践的でな有効な提案を目にすることはめったにない。そのなかで白川真澄「民営化に対抗する原則をどう立てるか」(『ピープルズ・プラン』28)は、民営化こそ正義で現状改革のカギだという社会的合意が形成されるなかで民営化論に対抗する論理を打ち出していて注目した。政府が進める三位一体改革は、地方交付税を削減して財政的に自立できない自治体を潰すことを目的としている。そのため全国の自治体は市町村合併に走る一方で、財政支出削減のため民営化(民間委託)を実施している。公共サービスは経済学でいう「公共財」にあたる。公共財は排除不可能性(料金を払わない人を利用から排除することは不可能)と、非競合性(ある人が利用・消費しても他の人の利用・消費を妨げることがない)の二つの性質をそなえる。そして公共財は市場・民間企業が適切に供給することができないから政府が税金を使って供給すべきだとする。道路・公園・教育・保育・医療などの利用から誰かを排除してはならないし、必要な人には誰にも供給すべきだということは社会的権利として政治的に決定されるべきなのだ。
 民営化論者はよりやすいコストでより質のいい多様なサービスが提供できると主張する。しかし保育の民営化などをみればわかるが民営化は質の低下と職員の労働条件の悪化をまねく。著者は公共サービスの4つの基準を提示している。(1)公平性。サービスを必要とする人が誰でも利用できる。(2)社会的必要性の充足。必要としている人が利用できるだけの量のサービスが供給される。(3)安全性。安全かつ安心できるサービスが受けられる。(4)民主主義的決定。決定権を官僚から利用者の手に取り戻し、サービス利用者の参加権・発言権・拒否権を保障する。(5)公正労働基準。公的部門であれ民間企業であれ、正規雇用であれパートであれ、公共サービスを提供するすべての労働者に人として生活できる賃金と雇用継続の均等待遇を保障しなければならない。公共サービスに携わるすべての労働者に生活できるだけの賃金を保障する義務を自治体に負わせる「生活賃金条例」の制定は、コスト=人件費削減を最大の狙いとする民営化に対抗する有効な方針となると著者はいう。人間らしく暮らせる公共サービスを供給するためには財政支出の増大は避けられない。だとすれば増大する費用を誰がどのように負担すべきか踏み込んだ政治的議論が必要なのだ。「高負担・高福祉」の社会への転換こそ必要だと説く著者の意見に全面的に賛成である。



2004年 11月  雑誌に未来はあるかー創刊ラッシュに想う

 なんだかなあである。いや、最近矢継ぎ早に創刊されている雑誌のことだ。『前夜』『現代の理論』などなどだ。第一になぜどれもこれも季刊誌なのか。スピーディーな時代に季刊誌はもっともふさわしくない。時代を追いかけているつもりが、発刊のころは賞味期限切れということがよくある。イラク戦争での『インパクション』や『ピーフルズ・プラン』など左翼系雑誌がそうだ。『インパクション』などかつてはよく読んだが、最近はほとんど読まない。読まなくても書いてある内容がおよそわかるのだ。第二に中身だ。パラパラ読むていどだが、どれもにたりよったりで個性がない。同じ季刊誌でも『理戦』や『大航海』など、差異化した編集でなかなかおもしろい。最近号の2誌の特集は特によかった。季刊誌ならもっと徹底してそれぞれ差異化したらどうか。第三に書き手である。なぜどの雑誌も学者連中に偏りすぎるのか。学者がいかんというのではない。もっと他に書き手がいるだろうということだ。雑誌には猥雑な活気がほしい。そのためにもいろんな書き手が登場してもいい。いずれにしても小さなサロンの専門誌といったおもむきで、おもしろみにかける。
 書き手といえば、90年代の月刊誌『サンサーラ』の吉本隆明「情況との対話」には夢中になった。それ以来いっぺんに吉本がすきになった。特にオウム・サリン事件のころの吉本は、大向こうを敵にまわして孤立無援でたたかい、ほんとうにすごかった。また『サンサーラ』もよくぞ吉本にあれだけ書かせたものだ。天晴れというしかない。おしむらくは『サンサーラ』は廃刊となったが。また90年代後半の月刊誌『RONZA』の辺見庸「屈せざる者たち」は毎月まちどおしかった。日本にもこんな書き手がいたのかとおどろいた。以来辺見も吉本についですきになった。だが『論座』に名称変更になったとたん、「屈せざる者たち」の連載はとつぜん打ち切られたいう。さらに浅田彰・田中康夫の掲載雑誌をたびたび変えての「憂国放談」。浅田の情況分析の鋭さには舌を巻いた。たしかな知識がいかに時代情況を的確に分析する武器になるかということを浅田は教えてくれた。これも夢中で読みつづけた。最近までつづいた週刊『ダイヤモンド』の二人の対談も、同誌の田中康夫批判で打ち切られたようだ。以上の書き手はいまはめったに雑誌には登場しない(できない)。わたしも夢中で追いかけるひとがいなくなってしまい、時代の羅針盤をなくした。そして身震いするような衝撃を受ける文章に出会わなくなった。日本の雑誌には一流のすぐれた書き手は登場できない仕組みのようだ。みな二・三流である。いやそれ以上にすぐれた現場の実践者や運動家たちが登場できない。こうしたひとたちがそれぞれの場所から発信してくれたら、どんなにおもしろい雑誌になることか。
 書き手の広場といえば、かつて『宝島』という月刊雑誌があった。おもに若いライターが登場してにぎやかで猥雑な雑誌だった。若手に書く場所を提供し育成したという点で『宝島』はとても意味があった。現在そういう総合雑誌が皆無になった。無名のライターたちにもっと書く場所を提供したら、雑誌も活気をとりもどしきっと世界が活き活きと立ち上がってくるだろう。だれか金のあるひとがそういう雑誌をつくれないものか。表現したいひとたちは無数にいるはずだ。書き手と読み手が自由に入れ替わり、相互に批判しあい、表現の場が広がらなければ雑誌の未来はない。文化は育たない。個人的なことだが、「週刊金曜日」に学校禁煙について二度投稿した。内容はこのホームページの「学校全面禁煙に異議あり」他だ。ところが二度とも不掲載になった。どうも少しでも学校喫煙を擁護するような内容については、同誌は掲載しない方針のようだ。しかしこれでは論争は起きないし、紙面は活性化しない。同誌もややサロン化してきている嫌いがあるが、もっと懐の深い紙面づくりをしてほしい。活字文化がすたれれば、社会の批判力も衰弱する。創造力も枯渇する。現在の日本がまさにそうだ。文化不毛の日本にしないために、もっともっと雑誌に活気がでてほしい。


2004年10月  5万年前人類に何が起きたか

 『大航海52』の特集「言語と人類の起源」がおもしろい。人類の祖先であるホモ・サピエンスが登場するのは、約20万年前といわれている。ところが絵画や彫り物、楽器のような芸術といえる文化遺物が遺跡のなかに発見されるのは、5万年前以降である。シンボルや装身具が登場し、狩猟技術の大変化が起きる。この変化は強烈で、石器時代の文化大革命ともいえる。なぜ5万年前にこうした大変化が起きたのか。考え方は2つある。ひとつは文化的変化はゆっくりと進行していたが、それが遺跡としていまだ発見さていないという考え方だ。もうひとつは5万年前にホモ・サピエンスの脳に何らかの化学的変化が生じ、脳の機能が急激に改良されたとするものだ。すなわち言語が新しい段階に達した結果だというものだ。最近出版されたリチャード・クラインの『5万年前に人類に何が起きたか』(新書館)は後者だ。人間と類人猿は4歳を境にべつの方向に発達するという。つまり類人猿は4歳以降急激に成長するが、人間は長く子どもの時代が続く。類人猿の知能は人間の4歳に匹敵するが、人間と違ってモノマネがなかなかできないという。それに対し、人間の子どもは他者の行動を理解し自分にとりこめる。それは言語によって他者の模倣が可能だからだというのだ。またタテマエトとホンネの二重性も人間だけにみられるものらしい。さらに類人猿では子どもや他者をホメるということをしない。つまり教育がない。人類が5万年前以降大型獣の狩りができるようになったのは、社会的言語から思考可能な言語へと飛躍があったのではないかというのだ。いずれにしても一介のチンパンジーにすぎないヒトが、なぜかくもユニークなチンパンジーであるのか、換言すれば人間の根源的特徴は何か、という大問題を解くカギが言語起源にあるというのだ。
<その他>
魚住昭「渡辺恒雄「権力の履歴書」」『現代』10月号
座談会「現代日本とイデオロギー」『経済』10月号
世界』特集「気候大変動」



2004年9月    地方財政の時限爆弾
 
<森裕之「地方財政の時限爆弾」(『世界』9月号)>
 森は自治体の財政再建にとって地方公社、とくに「地方三公社」(土地開発公社・住宅供給公社・道路公社)の財政問題は「時限爆弾」だという。地方三公社は自治体の全額出資で設置している。住宅・道路の各公社が都道府県・政令市のみ設置できるのに対し、土地開発公社は市町村でも設置できる。そのため全国で住宅57道路43に対し、土地開発は1554。02年度で全国の土地開発公社の債務は6.7兆円。これは地方の借金134兆円の5%にあたる。自治体によっては借金の5割もが土地開発公社の債務だという。92−01年まで日本で唯一の財政再建団体であった福岡県赤池町の財政破綻の原因が土地開発公社にあった。赤池町の財政赤字が4億円なのに土地開発公社の債務は22億円。赤池町は土地開発社を廃止するのと引き替えに財政再建団体の指定をうけた。
 なぜこんなことになったか。第一に議会の責任だ。公社が外郭団体のため議会のチェック機能がはたらかず、隠れ借金がふくらんだ。。根源には利権をめぐる「政・官・業癒着」がある。第二に政府の責任だ。政府は公共事業に自治体を動員するため公社の事業範囲の拡大と財政的優遇措置を講じてきた。自治体もそれを利用して公共事業を拡大してきた。土建国家日本の縮図である。森は地方財政危機が最終ステージに向かっているいまこそ、自治体は公社の廃止・縮小をして「時限爆弾」の除去を速やかに進めるめるべきだと提言している。朝日新聞(8月29日社説)によれば、900億円の借金がある千葉県住宅供給公社は、特定調停を東京地裁に申し立てた。地裁の「救済案」では700億円借りている銀行に45%の債権放棄を求め、残りは県債で埋め合わせるという。北海道・長崎県の住宅供給公社も特定調停を申請した。これらは氷山の一角だ。社説は隠れ借金を表に出したうえで、公社の存廃の是非を議会や住民に問うべきだとしている。


         自衛隊はイラクで何をしているの

<綿井健陽「自衛隊派遣から半年 サマワの現実と幻想」『論挫』(9月号)>
 7月にサマワに入った綿井の報告。サマワ市民にきいても、自衛隊の撤退を求める人や非難する人はまずいない。だがその背景には、日本企業の進出を期待している地元の利益計算がしたたか渦まいているからだという。自衛隊の給水活動は1日12−14台でで人数も数十人規模。それに対しフランスのNGO「ACTED」は、給水車は毎日100台を超え、運転手も事務方もすべてイラク人を雇用。そのACTEDのサマワでの給水活動の年間予算が1.3億円。サマワでの給水はACTEDが効率・規模・コストも、実績も貢献度も自衛隊よりすべてにわたって上だという。自衛隊のイラク派遣費用は年間400億円。費用のほとんどが自衛隊員の人件費と安全対策費。サマワでは水不足による飢餓や干ばつが発生しているわけではない。問題は水道設備などのインフラが整備されていないことにある。したがって給水は民間のマンパワー増量と資金援助で十分対応できる。自衛隊の給水活動は根本的解決にはならず、逆に自衛隊が駐留することで本来平和な街に「治安の悪化」を招いている。自ら招いた治安の悪化に、宿営地の安全対策強化で精一杯なのが自衛隊の実情だという。イラクで医療支援を長く続けているNGO「日本国際ボランティアセンター」の原文次郎さんのことば。「自衛隊が人道支援活動にかかわることは、軍隊による治安維持活動との線引きが曖昧になり、人道援助の中立性に疑問が生ずる」。それにしても現在サマワには日本人記者は一人もいない。新聞に載るサマワの記事は、東京本社の記者がその場でみたかのように自衛隊のヨイショ記事を書いているというからアキれてしまう。
 マイケル・ムーア監督は、朝日新聞のインタビューにつぎのように答えている。「戦争の恐怖を最も知っている日本が、イラク戦争に荷担する道を選んだのは、まったく悲しいことだ。第2次大戦後、日本は世界で、平和のたいまつのような存在だったはずだ。60年大事にしてきたものを、ブッシュの貢ぎ物にしてしまった。それで日本はより安全になったのかい」(8月20日)。